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CHRONO TOKYO – 高級時計の条件 その2

現代では、機械式腕時計で時間を知る必要はそれほどない。腕に装着している機械式時計を見るとき、時間を知りたいというよりも、そこに存在しているデバイスを視て、数秒感の満足感を得たい、そういう思いのほうが強い場合があるのではないか。そして、そうしたオーナーの想いがあるとするのなら、機械式時計というデバイスは、その思いに応えることを要求されているのではないか。 ところで、この「オーナーに満足感を与える」という高級時計の条件の一つは、そうハードルが高いものではない。視認性の良し悪しはもちろんのこと、価格すら無関係である。単にオーナーのお気に入りの時計でありさえすればよい。 その一方で設計者として、不特定多数の人向けの量産時計で「お気に入りの時計」となるべき高級時計を設計するとなると、その難易度は極端に跳ね上がる。お気に入りの条件は千差万別(ミリタリー好きの方もいれば、クロノグラフ好きの人もいるし、ドレス時計が好きな人もいるでしょう。それに大きさの好みもいろいろありますよね)であることに加えて、そもそも自分のお気に入りを分かっていない人も多い。「これってかっこいい」とパネライを手に取っていうのは簡単だが、私の思う「かっこいい」時計はこうです、とパネライをデザインできる人は限られるはずだ。 浅岡氏は設計にあたって、CHRONO TOKYOのこの難易度をどうクリアしたのだろうか。 あくまで筆者の私見だが、浅岡氏のデザインコンセプトはこうではなかったか。 「自分が一、二秒間その時計を視つめて、それで満足感を覚えられる時計」 一瞬で時間が分かるということは、時計にとって善し悪しがある。視認性がいい時計の場合、すぐに目を切ることができるため、いかに炯眼の持ち主でもその時計のアラが分かりにくくなる。時間は確実に分かるが、時間を知るためには時計を視なければならない時計にする。そして二秒という時間、自分の視線に耐えうる時計を量産時計の価格帯で設計する。 そうであればこその専用文字盤、専用針、専用のケース、新規の革ストラップおよび尾錠ということになったのではないか。 二秒間という時間はけっこう長い。その長い間浅岡氏に視つめられて満足感を得られる、そんな時計が、機械式腕時計好きのある一定の層に受け入れられるのは当然であろう。 この時計が私のお気に入りの時計になるのはどうやら必然であったようである。

CHRONO TOKYO – 高級時計の条件

この時計は、腕に載せるデバイスに、「時間を知る」以上のことを求める人のための時計である。 一週間ほどCHRONO TOKYOと過した。これほどの時計であるから、もちろん満足度は高い。一方で写真撮影が難しいことに驚いた。このCHRONO TOKYOは、素晴らしい光沢文字盤に、これもまた光を反射する大きな針を持つ。屋内だとまあ大丈夫だが、屋外で写真を撮ると、あらゆる光を反射して写り込む。 次に、意外と視認性が良くはないことに驚いた。筆者の個体はグレー文字盤ということもあり、昼はともかく、夜の視認性は良いとはいえない。 だが、試行錯誤を繰り返した結果、CHRONO TOKYOでの視認性の確保のやり方がだんだんと分かってきた。つまり、CHRONO TOKYO で時間を見ようとしてはいけない。CHRONO TOKYOで時間を見るためには、1. まず腕時計を視る。そして、2. 針が光を反射する方向を探して腕を傾ける。この二動作がベストである。この二動作を行うことで、夜でも視認性を確保できる。CHRONO TOKYOの光沢文字盤と針とが、些かな光さえあればそれをきちんと捉えてくれるのだ。 一方で、この二動作を行うために、1ないし2秒は必要である。そのため、CHRONO TOKYOは、一瞬で時間を判別する用途にはたいして向いてはいない。切羽つまった電車の乗り換え時などにCHRONO TOKYOを視ている余裕はおそらくない。 これは一体どういうことなのだろうか。 腕時計であれば、見た瞬間に時間が分かってほしいものではないだろうか。特にミリタリー系のツールウォッチは視認性に非常にこだわる。例えばあれだけ文字盤が煩雑なブライトリングのナビタイマーでさえ、良好な視認性が確保されている。ところで、CHRONO TOKYOは、時間を知るために、常に時計を視ることを要求するデバイスなのである。 これが設計者、デザイナーである浅岡氏の意図であることは間違いないだろう。そして、それこそが、浅岡氏の考える「高級時計の条件」の一つなのではないか。 この「高級時計の条件」についてもう少し考えたいと思う。 追記 1st Mar 2020:  現在のリビジョンの Chrono Tokyo では反射を抑える方向で改善されている。ラグなどの造型もこの最初期のものとは若干違い、常に変更が加えられつづけている。

CHRONO TOKYO

「こだわり」にもいろいろある。 例えば評価の高い独立時計師がこだわって作る時計の場合、ほぼ好きなように値段をつけられるから、コストの制約はあまりない。こだわり放題である。パッケージや革ストラップなどは、時計本体の値段に比べればおまけのようなものであるから、選択の自由度は高い。豪華な化粧箱も作ることができるし、ストラップにクロコダイルを使おうが、ガルーシャを使おうが自由である。あらゆることにほぼ好きなようにこだわることができる。 一方で、税込20万円の時計で「こだわる」場合にはそうはいかない。時計本体のコストに制約が出てくるのはもちろんのこと、革ストラップ、パッケージのコストも馬鹿には出来ない。コスト制約のなかでの優先度をつけた「こだわり」である。今回はその制約の中での「こだわり」を見ていきたい。 まず開梱である。内部の梱包は最小限にしてあるが、そこで時計の化粧箱が第一のこだわりポイントである。大きさは最低限の、ちょうど60~70年代の時計の箱のサイズのようである。この化粧箱を開けようとすると気付くのが、内箱と外箱のクリアランスである。きっちりと内箱と外箱とがかみあう大きさに仕上げてある。 次はストラップである。革ストラップは、市販品で3000円くらいからでも入手できる。時計本体に「こだわる」のであれば、ストラップというのは交換可能なパーツでもあるし、ある程度はクオリティを犠牲にしてもよいパーツではないかと一瞬考えてしまう。しかし、この時計の場合は違う。豪華なものではないが、十分にしなやかでつけ心地も良い。色も文字盤にあわせてマッチした色の選択である。腕時計は、時計本体だけでは時計としての機能を果たせない。革ストラップも含めて時計の一部であると主張しているようである。そのサイズは、クラシックをリスペクトしたかのような 20-16であり、この時計にあつらえたかのようにすごく似合っている。裏にはGENUINE LEATHERと素気なく書かれているだけであり、いかにも市販品のような体裁だが、これも浅岡氏のデザイン、または監修のはずである。 尾錠も見逃せない。筆者が最初にパッケージを開けて驚いたのはこの尾錠であった。こういう形状の尾錠を筆者はあまり見たことがない。筆者の所持時計の中では、オーデマ・ピゲのヴィンテージ尾錠に似ている。現代の時計でいえばブライトリングの尾錠に似ているが、ブライトリングほど止め金の幅を広くとっているわけでもない。刻印も何もないが、まるでCHRONO TOKYOの時計本体とストラップ専用に作ったかのように大変よく似合っている尾錠である。 いよいよ時計本体である。 まず気付くのがその文字盤の素晴しさである。最近ではなかなか見ないボンベダイヤルで中央が盛り上ったデザインになっている。グレーということになっているが、光の反射で様々に色が変わる。針もオリジナルのデザインであり、この時計が高精度であるということを誇示するようにきちんとインデックスに届く長さである。しかもその上先端の曲げ処理まで施してある。そして、この文字盤と針を保護するのはボックスサファイヤである。まさしく往年の高級時計の浅岡氏流のモダンな解釈とでもいえようか。 最後に、ムーブメントおよび文字盤を保護するケースである。これもまたこだわりのケースである。サイドからラグへと流れる曲面は、なんとも言いあらわせない三次元の曲面で構成される。サイドの曲面がすっきりラグに収斂する様は往年のカラトラバやオーデマピゲのVZSSのような形状を彷彿させつつも、それとは違うモダンなデザインになっている。側面から見るとこれがよく分かるかもしれない。上が オーデマ・ピゲのVZSS、下が CHRONO TOKYO である。 さて、このようなこだわり抜いた時計が税込20万円で手に入る(注: 10/12現在.入手できない。最初の限定発売分は、発売開始わずか2日で受付停止であった。現在、追加生産を検討中とのことである)。デザイナーが、デザインだけでなく、量産工程の部品の監修、プロデュースを手掛けることで、ここまでのクオリティ、ポテンシャルを引き出すことができる。誰もができることではないが、モノヅクリをしている人たちは、自分の潜在能力に気付き、自身のこだわりによりフォーカスすることで、社会全体のポテンシャルを高めることができる。浅岡氏がこの時計で証明したかったことの一つはそういうことであったのかもしれない。

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