Q値という「物理量」についての話を続ける。「物理量」とはそもそも人間が考えた仮説の一つであった。仮説は、汎用的な概念を含んだ仮説であればあるほど分野を超えて広く使われるようになる。ニュートンの「万有引力の法則」では、リンゴが落ちるときに働く力と、天体と天体との間に働く力とは同じ法則に従っていると説く。一見まったく違った現象に見えるそれらを汎用的な法則で説明したからこそニュートンは偉大であった。 Q値に戻る。この概念は、Valjoux 22 の初出と同じ1914年に提唱された。それ以来、分野を超えて振動現象の品質について広く使われる定義になっている。振動現象とは、ある一定期間内に繰り返される周期的な運動のことであり、ヒゲゼンマイの収縮運動は間違いなく振動現象である。そうなると、時計の場合もQ値は定義でき、実際に以下のように定義される。 Wはその振動現象を行っているシステム、ここではテンプに蓄えられるエネルギー、ΔWは一回の振動で失なわれる量である。 つまりは、一回テンプを動かして、それがどのくらい動き続けたかを観測できれば時計のQ値は実測できる。実際にテンプのみを取りだして、一回それを収縮させ、それが20秒間動き続けたとしよう。この場合 Q値はおおよそ300になる。5振動は 2.5Hzであるから一秒あたり2.5回往復運動をする。それが 20秒動作したということは 50回テンプが往復運動をしたということになる。ということは、一回の往復運動で1/50ずつエネルギーが失われ続けたということになるから、その往復回数に2πを乗算すればQ値は計算できる。 一方で例えば5振動の時計のテンプが2秒で止まってしまったとしよう。この場合Q値はおおよそ30になる。Q値が一桁違えば精度はおおよそ一桁変わってくると予測できた (機械式時計はなぜ動くのか その14)から、Q値が30の時計の日差が+-60秒程度だとすると、Q値が300の時計はおおよそ日差+-6秒程度に収まるであろうことが予想できる。もちろんQ値のみで日差は決まるわけではなくあくまで目安でしかないが、物理法則とはかくも素晴しく、我々の生活に予測を与えてくれるもののようである。 今週の時計は、「世界初の自動巻きクロノグラフ」の系統を汲むcal.12を搭載したホイヤーコルティナである。ホイヤーの70年代モデルの中ではあまり見かけないモデルだが、オクタゴンのフェイスやブレス一体型のデザインなど、1970年代の雰囲気がよく出ている時計だと思う。このモデルに関しては以下のリンクが詳しい。 ULTIMATE GUIDE TO HEUER CORTINA
時計の精度、このことは時計の発明以来、数百年来追求されてきた時計の本質である。 一つ興味深いグラフを掲載する。これは昭和48年当時、当時第二精工舎の生産技術部の林保夫氏の論文「最近の腕時計と量産技術」から引用させていただいた(赤ラインは筆者) 発振周波数が高ければ高いほど、精度はよくなることがこの図から分かる。しかし、その赤丸をつけた部分を見ると、例えば振り子時計は発振周波数は低い(黒塗り四角)が精度はよい(白抜き四角)。これはいったいどうしたことであろうか。 この論文が書かれた当時、昭和48年(1973年)には、このことはおそらく自明なことであったであろうと想像する。が、現在2017年の我々には少し説明が必要に思えてしまう。 またよく見ると、テンプ式機械式時計、これはいわゆる機械式腕時計のことであるが、この精度は、当時でも日差10秒以上〜1秒未満と二桁違っている。つまり、当時でも日差一秒未満の腕時計は存在しており、一方でおそらく日差10秒以上の時計というのは当時の量産タイプ(といっても現在の量産腕時計よりは随分高価であったはずだ)と考えても間違ってはいないだろう。 同じメカニズムで二桁精度が違うというのは機械式時計というのは実に面白い仕組みだと思わないだろうか。例えば高級車だからといって最高速度が二桁変わるわけではない。戦闘機とボーイング747でも最高速度の違いはせいぜい1桁である。ところが機械式時計では同じメカニズムを採用している量産モデルと高級モデルとで精度が2桁違うのである。これがマイクロメカトロニクスの面白いところなのであろうか。
トルクに関して理解が進んだところで、次に進めていきたいのは、精度保証の仕組み、テンプの動きについてである。一般に、クオーツ時計は、原発振周波数が高いから機械式時計よりも精度が良いとよく言われる。本当にそうなのだろうか。まずここからはじめてみたい。 筆者はかつて、機械式時計はなぜ動くのか その1にて、 32KHzと 5Hz、6400倍もの差がありながら、クオーツおよび機械式時計の精度の差はおおよそ数十倍程度です。 と書いた。 たしかにクオーツ時計は精度が良いが、発振周波数の差と精度の差とを比較すると、発振周波数の差に比較して、機械式時計の精度は良すぎるように思えてしまう。 きちんと作られた機械式時計は、きちんと整備をすると、数十年前の時計でも日常使いできる精度で動作する。機械式時計の仕組みとは、実に、驚くほど完成された仕組みなのではないだろうか。 写真は、整備から上がったばかりのセイコー社のヴィンテージ時計、ロードマーベルである。防水が期待できないこの当時の時計を、この暑い最中、普通に着用して仕事で使っているが、日差+3秒、パワーリザーブ48時間で快適に時を刻み続けている。
トルクに関してまとめよう。 そもそも、機械式時計はなぜトルクが大きくなければならないか。それは機械式時計が、その精度をテンプに頼っているからである。機械式時計の場合、主ゼンマイのトルクで最終的にはテンプまで回転させなければいけない。主ゼンマイの周波数(6時間で一回転)から2.5Hzまで増速する場合、54000倍もの増速である。この場合、テンプを回転させるために必要なトルクは、元の主ゼンマイのトルクに対して1/54000以下に減少する。そのトルクである程度の重さを持つテンプを回転させるのであるから、相当のトルクが主ゼンマイには必要となる。表示のための分針と時針とは、その主ゼンマイの回転数に近いところから動力をとっているから、テンプを回すトルクの数千倍のトルクを利用できる。その結果、相当程度に太くて重い視認性のよい針を回転させることができる。しかしながら、いくら機械式時計といっても秒針は細くて軽い。これはトルクが減少した歯車から動力をとらざるをえないからである。 一方で、クオーツ時計の精度は、水晶体の原発振周波数の精度による。液晶でもLEDでも好きな表示形態を選ぶことができる。トルクが必要になるのはアナログ表示、針を回転させたい場合のみとなる。発振周波数の伝達は電気信号で行なわれ、歯車が不要であるため、トルクの増大、減少といったことはない。さらには針を駆動する歯車比に関しても、機械式時計のような制約はない。電気信号で一回、一秒の振動数を作ってから減速して作るのが一般的な構造となるが、減速、増速は好きなように選ぶことができる。モーターの消費電力からくる制約さえ改善されればクオーツ時計のトルクが改善される余地は十分にあるといえるだろう。
では、いよいよ機械式時計の仕組みに行きたいと思います。これが私の思う機械式時計のモデルです。クオーツと比較して、仕組みが複雑になっているのが図からも分かるかもしれません。 この歯車の比は、時計三昧さんのウェブページを参考にさせていただいております。いつもどうもありがとうございます。 クオーツ時計と大きく違うところは以下の三点になるかと思います。 動力源が一体になっている。クオーツの場合は、電池という動力源が、振動数を変換する電子回路を駆動していました。機械式時計の動力源は、香箱のゼンマイです。クオーツ時計と違い、その駆動力は振動数を変化させると同時にダイレクトに歯車で次の歯車を駆動します。 クオーツと違い「増速」になっている。クオーツの場合は、もとが32768Hzという非常に速い振動を遅くすることで、秒針、分針、時針を作っていました。一方機械式時計では、遅い香箱の回転から、分針、秒針を作ります。 フィードバックループが形成されている。クオーツの場合は、元の速い発振周波数を単純に分割することで所望の時間単位を作ります。一方、ゼンマイ時計の場合は、テンプの速度にあわせて、ゼンマイの解ける速度を調整します。一番最後の三角印の部分ですね。テンプの速度にあわせて、ガンギ車の速度が調整されます。 機械式時計は、動力源と速度調整を一体で行う仕組みを採用しているがために、設計者からうすると、ここが最大の制約条件であり、面白味でもあるんじゃないでしょうか。
さてクオーツ時計と機械式時計の比較の続きです。精度、トルクとみてきましたが、今回はメンテナンスの差、オーバーホールについてです。 腕時計のオーバーホールの場合、おおよそ次の手順からなります。 外装チェック、洗浄 防水チェック、必要であればリューズ、パッキンなどの部品交換 ムーブメントの分解、洗浄、注油 この内、外装や防水のチェックについてはクオーツでも機械式でもそう手間は変わりません。大きく違うのはムーブメントの分解、洗浄、注油工程になります。部品数の多い機械式時計の場合は、この工程がそれなりに手間がかかります。機械式時計は、比較的大きなトルクで複数の歯車を駆動します。そこで、部品の摩耗対策が必須になります。このため、とくに摩耗が大きい歯車の軸には受け石と呼ばれるルビーを配置し、そこにオイルを塗布します。画像は1968年製造のオメガ861。裏蓋を開けたところから見えるルビーの位置には矢印を置いてます。画像で下のほうに見えるのがテンプで、これがオメガ861の場合、一秒あたり6振動、一分では360振動もします。 一方、クオーツ時計は、モーターで針を駆動し、そのトルクは機械式時計と比較すると弱いです。その上クオーツ時計は部品点数が少なく、機械式時計のテンプのようにせわしなく回転する部品はありません。クオーツ時計の場合、一番速く回転する部品は秒針で、1分で一回転します。機械式時計と比べると部品に与える負荷が非常に小さいのが分かります。 なお、クオーツ時計もたいていの場合受け石があります。これは一つのモーターで複数の針を駆動するからで、その場合、基準となるモーターの回転数を調整する歯車が必要になります。その歯車は、ある回転軸の回りを常に回転していますから、摩耗対策が必要であれば、そこにはルビーが置かれるでしょう。世界最初のクオーツ時計、アストロンは8石のムーブメントを搭載していました。 そして、受け石があるということは、クオーツ時計も分解、洗浄、注油というオーバーホールはしたほうがいいということになります。しかしながら、クオーツ時計の場合、部品の損耗が機械式時計よりは段違いに小さく、結果的に電池交換だけで10年とかは普通に動くことになります。ただしケースの防水性の劣化は、機械式時計、クオーツ共に変わりませんので、防水性が必要な時計は定期的にチェックしましょう。
機械式時計の位置づけ、構成要素、工業製品としてのデザイン上の制約、幅広い製品ラインアップまでを駆け足で見てきました。そういう、ある制約に基づいて作られた工業製品、機械式時計。そういう製品のどこがいいんでしょうか?それをもう一度検討してみます。 まず、いい、悪いを決めるというのは、簡単な話ではないです。いい、悪いというのは絶対的な判断基準ではなく、相対的な価値観です。AはBと比較していい、ということはいえますが、Aは絶対的にいい、Bは絶対的に悪い、ということはできません。 モノの価値を決めるのは人間ですから、ある人が「これはいい」といえば、それはそれでいいモノである、といえます。判断基準となる好みは人によって千差万別です。ロレックス デイトナがいいとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、パテックフィリップの名作Ref.96がお好きな方もいらっしゃるでしょう。また、セイコー5がいいという方もおられるでしょう。 次に、いい、悪いの比較対象です。現代のわれわれはきっと「機械式時計」という場合、比較対象としてクォーツ時計を思い浮べると思います。「時間を知るだけだったら、ケータイでいいじゃん」「クォーツが正確だし、わざわざゼンマイ巻かなくていいし、なんでローテクの機械式時計?」まったくおっしゃる通りです。そこで、少しクオーツ時計について見てみることにします。 クオーツ時計は、一日に10秒程度は誤差がある機械式時計と違って、その誤差は一カ月で10秒程度におさまります。ざっと30倍は精度がいいことになります。また耐衝撃性も高いです。機械式時計は、テンプが一秒間に数回の往復運動をすることで一定の時間を刻みます。この部分が、どうしても衝撃に対しては弱くなります。クオーツ時計の場合、一定クロックを生成するのは水晶の固体振動子になりますので、衝撃に対して強くできます。そしてクオーツ時計は電子機器ですので、部品点数は機械式時計に対して少なくできます。100以上の部品を必要とする機械式時計に対して、おおよそ約半分の部品数で構成されます。しかも、電池式ですからいちいちゼンマイを巻き上げなくても、使いたいときに使えます。精度はいい、衝撃にも強い、使い勝手はいい、しかも電子機器ですから安価です。ここまで揃っている時計があるのに、なぜ機械式時計がいるんでしょうか。 実際にクオーツ腕時計の発明の結果、1970年代には機械式時計は絶滅寸前まで追い込まれてしまいます。1969年、ゼニスは、自動巻きクロノグラフとして有名なエルプリメロを発表しますが、そのわずか3年後には、アメリカのラジオメーカーに買収され、機械式時計の生産中止を言いわたされることになってしまいます。
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