ジャック・ホイヤーは回想しています。 1969年春のバーゼルにセイコーの「社長」だった服部一郎がきて、「最初の自動巻クロノグラフ開発の成功、おめでとう」と声をかけてくれたんだ。もちろんセイコーのクロノグラフについて何も言ってなかったよ。しかし、セイコーの社長が我々の成功を認めて声をかけてくれたということは、我々がやりとげたことに対するいろんな賞賛の中でも、かなり重要な意味を持つ賛辞だったと思えるかなぁ。 どうも煮え切らないコメントです。ジャック・ホイヤーはセイコーの「社長」がいさぎよく自分たちの負けを認めてエールを送ってくれたと理解したいみたいです。ただ、3月にもう量産してたんだったら、なんで負けを認めたんだ、という釈然としないものも感じているところが、このコメントからは汲みとれます。ゼニスに関しては一刀両断、「バーゼルで我々のほうが数ヶ月進んでいることはもう確信できた」です。この落差はどこから来ているのでしょう? ここでどうもセイコーのお家の事情が顔を出しそうです。服部一郎は当時は第二精工舎の社長でした。諏訪精工舎の社長にはまだなっていません。セイコーの自動巻クロノグラフ6139は諏訪精工舎製でした。服部一郎は、諏訪精工舎の自動巻きクロノグラフのことを知らずにジャック・ホイヤーに「おめでとう」と声をかけたんでしょうか? 諏訪精工舎はすでに3月にはセイコーファイブスポーツの量産を開始しています。発売日も決まっていたと考えるのが自然です。服部一郎はこの販売計画を知らなかったのでしょうか?なぜ彼は自社製クロノグラフのことに一言も触れずにジャック・ホイヤーに「おめでとう」と声をかけたのでしょう?単なるリップサービス?それともセイコーのほうが優位に開発を進めているという自信?あるいは、ほんとにまったく諏訪精工舎の開発スケジュールについて知らなかったのでしょうか? もちろんジャック・ホイヤーがそんなセイコーのお家の事情を知る由もありません。写真は当時のジャック・ホイヤー。腕につけているのはcal.11搭載のオータビアです。
では次にホイヤーブライトリングのグループはどうでしょう。 これは文句のつけようがなさそうです。3月にニューヨーク、スイス大々的に発表したということは、少なくともそれなりに量産の準備は出来ていたんでしょう。また4月のバーゼルでの発表は決定的ですね。 彼らは1968年の秋には100個ほどの量産サンプルを完成させていました。1969年1月のゼニスの発表に当初はショックを受けたものの、詳細が分かるにつれ(当時はインターネットもグーグルもありません。刊行物による情報の他は非常に限られた情報しか入手できませんでした)、自分たちのグループが遥かに先行していると自信を持ったといいます。 そして、いよいよバーゼルです。ホイヤーーブライトリングはそれぞれ、ブライトリングはクロノマティック、ホイヤーはカレラ、オータビアなど様々なキャリバー11搭載モデルを発表しました。一方、ゼニスは2、3の展示に留まりました。この展示で圧勝だと確信したそうです。 ところで、バーゼルの発表は量産準備ができているとはいえ、量産品ではありませんでした。一般に入手できるシリアル番号が入った量産品は1969年の夏に一般向けのデリバリーが開始されます。ゼニスのエルプリメロの量産はさらに遅れること4ヶ月の10月まで待たなければなりません。 写真はデュボアデブラによるクロノグラフモジュールの設計図です。
日本の常識としては、量産が完了して発表するのは当り前で、発表は「発売」と同じです。 ところが世界の常識はちょっと違うようです。発表したといっても、かならずしも「発売」しなくてもいいようです。まあそれはそうですね。最近のバーゼルでも同じです。バーゼルで発表された時計が入手できるまで半年待ちなんていうのはザラにあります。40年後の現代ですら、そのペースが許容されるのですから、40年前はいったいどうだったんでしょう? さらに「量産開始時期」というのは回りからは分かりません。分かるのは「いつ、どこで、どのような形で発表したか。それはどのくらいの数だったか。品質はどの程度量産に耐えうるものだったのか」というアナウンスされたときの状況だけになります。 では、量産の準備が完全に整っていなくても発表したもの勝ちなのでは? もちろん時計に限らず、どんな発明にもその要素はあるでしょう。いくら自分で発明していても、それを「発明した!」と一般にアナウンスしてくれなかったら、一般からは発明していることは分からないです。それを分かれと言われてもちょっと困りますよね。
© 2025 Wristwatchな世界 — Powered by WordPress
Theme by Anders Noren — Up ↑