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最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その18

最初に自動巻クロノグラフをリリースしたのは、どこのメーカーだったのか、まとめです。 ゼニス/エルプリメロ…ゼニスのウェブでは、「完全一体型のコラムホイール式自動巻クロノグラフ・ムーブメントを開発した最初の時計メーカー」と主張しています。どうもライバル のホイヤーーブライトリング(カム式、モジュール型クロノグラフ)に対して「難しいことをきちんとやったから時間がかかったんだ」という負けた怨念が垣間みえるようです。たしかにエルプリメロの完成度は高く、現在まで通用する基本設計がなされていました。 ホイヤーブライトリング/キャリバー11…ホイヤーのウェブでは、初の自動巻クロノグラフムーブメントを開発、発表となっています。ブライトリングのウェブでは、共同で自動巻クロノグラフを開発した、となっています。どちらかも余裕のコメントですね。やはり時計は量産できてはじめて製品といえるのでしょうから、世界で一番早く自動巻クロノグラフを製品化した、またそれを分かるようにきちんと発表もしているという自信があふれているように見えます。キャリバー11自体は、マイクロローターの巻上効率が悪く、すぐにキャリバー12へと更新されていますが、このモジュール構成は後のムーブメントに大きな影響を与えました。現在、同様のモジュール構成をとった自動巻クロノグラフムーブメントとしては、有名なバルジュー(ETA) 7750があります。 セイコー…発表はホイヤー-ブライトリングに遅れること二ヶ月の5月です。しかしながらホイヤーープライトリングのキャリバー11の量産が夏であることを考えると、ほぼ間違いなく量産を開始したのは一番早いです。69年3月という量産初期のシリアルの時計がけっこうウェブで見つかります。クロノグラフのピラーホイール制御、世界初の垂直クラッチの採用と設計にも見るべきポイントがあります。この垂直クラッチは近年のクロノグラフムーブメントに大きな影響を与えています。有名なところでは、ロレックスのデイトナ4130にも採用されています。 1969年1月10日 ゼニスがエルプリメロの試作品をスイスの特定のプレス向けに発表 1969年3月 セイコーがセイコースポーツファイブ6139を量産開始 1969年3月3日 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11を大々的に発表(スイス、ニューヨーク) 1969年4月 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11をバーゼルで発表 1969年5月 セイコーがセイコースポーツファイブ6139を発売 1969年夏 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11をデリバリー開始 1969年10月 ゼニスがエルプリメロをデリバリー開始 この稿、これで終わります。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その16

なんだか日本人としては非常にもったいない気分になってきました。では、なぜセイコーのアナウンスが遅れたのか、そのあたりをちょっと探ってみましょう。 一つには当時セイコーはバーゼルには参加していませんでした。なので、バーゼルで発表するという手段がそもそもありませんでした。またセイコーの時計が世界的にブレイクしたのはやはりアストロンの発表後です。ところでこのアストロンの発表も、銀座の和光での発表のみでした。そもそも世界的な発表をするという手段の選択自体が当時は難しかったことが伺われます。 また、セイコーが自動巻クロノグラフのプラットフォームにローコストのセイコーファイブを採用したということも多少は影響したかもしれません。アストロンの定価は当時45万円、これは普通車よりも高い値段でした。これくらいのモノになるとやはりきちんとした場所できちんと発表しなければいけないという気分にならざるをえませんが、一方のセイコーファイブスポーツは16000円と18000円という値段付けでした。大学卒の初任給が3、4万円のころですからけっして安くはありませんが、それでも高価な時計の中ではローコストのほうでした。 ちなみにゼニスのエルプリメロの日本での定価は14万5000円。キャリバー11を搭載したホイヤーのカレラが9万3000円、モナコが10万5000円でした。 セイコーのウェブページでは、自動巻クロノグラフの開発は「国産初」ということになっています。また、2003年にセイコーが出版した英語の「A Journey in Time」にはセイコーの「国産初」のクロノグラフのことはまったく触れられていないようです。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その15

ではセイコーのクロノグラフはどうだったのでしょう?もう一度年表を並べてなおしてみましょう。 1969年1月10日 ゼニスがエルプリメロの試作品をスイスの特定のプレス向けに発表 1969年3月 セイコーがセイコースポーツファイブ6139を量産開始 1969年3月3日 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11を大々的に発表(スイス、ニューヨーク) 1969年4月 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11をバーゼルで発表 1969年5月 セイコーがセイコースポーツファイブ6139を発売 1969年夏 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11をデリバリー開始 1969年10月 ゼニスがエルプリメロをデリバリー開始 こう並べてみるとどうですか? どうも一番最初に自動巻クロノグラフを作ったのはセイコーのような気がしてきませんか? ただし、残念なことにセイコーの発表は5月でした。これではセイコーの自動巻クロノグラフは、極東の島国でひっそりと量産が開始され、ひっそりと島国向けにアナウンスされた、ということになってしまっても仕方ないかもしれません。 セイコーの自動巻クロノグラフは、セイコーファイブというローコストの時計をベースにしていましたが、設計にも見るべき点がいくつかあります。クロノグラフの制御にはピラーホイールを採用しており、また垂直クラッチを世界で初めて採用しました。この垂直クラッチ、いまではロレックスのデイトナが採用していることでも有名ですが、その世界初の採用はこのファイブスポーツです。 画像は一番初期のプロダクションロット、1969年3月のセイコースポーツファイブです。それなりに数がありますので、やはり量産に成功した後でアナウンスした、と見るのが自然と思えます。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その14

では次にホイヤーブライトリングのグループはどうでしょう。 これは文句のつけようがなさそうです。3月にニューヨーク、スイス大々的に発表したということは、少なくともそれなりに量産の準備は出来ていたんでしょう。また4月のバーゼルでの発表は決定的ですね。 彼らは1968年の秋には100個ほどの量産サンプルを完成させていました。1969年1月のゼニスの発表に当初はショックを受けたものの、詳細が分かるにつれ(当時はインターネットもグーグルもありません。刊行物による情報の他は非常に限られた情報しか入手できませんでした)、自分たちのグループが遥かに先行していると自信を持ったといいます。 そして、いよいよバーゼルです。ホイヤーーブライトリングはそれぞれ、ブライトリングはクロノマティック、ホイヤーはカレラ、オータビアなど様々なキャリバー11搭載モデルを発表しました。一方、ゼニスは2、3の展示に留まりました。この展示で圧勝だと確信したそうです。 ところで、バーゼルの発表は量産準備ができているとはいえ、量産品ではありませんでした。一般に入手できるシリアル番号が入った量産品は1969年の夏に一般向けのデリバリーが開始されます。ゼニスのエルプリメロの量産はさらに遅れること4ヶ月の10月まで待たなければなりません。 写真はデュボアデブラによるクロノグラフモジュールの設計図です。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その13

さて、世界初の定義がそう簡単ではなさそうだということは分かっていただけたと思います。 いよいよ1969年の出来事を年表にまとめてみましょう。 1969年1月10日 ゼニスがエルプリメロの試作品をスイスの特定のプレス向けに発表 1969年3月3日 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11を大々的に発表(スイス、ニューヨーク) 1969年4月 ホイヤーーブライトリングがキャリバー11をバーゼルで発表 1969年5月 セイコーがセイコースポーツファイブ6139を発売 さて、これだけ見ると、どこが一番最初に自動巻クロノグラフを作ったように見えるでしょうか? 発表の順序だけだと、ゼニスですね。ただこの時はいくつかの試作品だけでした。実際にエルプリメロが入手できるようになるのはこの1969年10月です。やはりある程度量産の目処がたたないと大掛かりなプレスイベントは出来ませんし、一般大衆の注意を引きつけるのはちょっと難しいかもしれません。 エルプリメロは、1969年に発表された自動巻クロノグラフの中では、唯一現在でも入手できるムーブメントです。これは当時のエルプリメロの開発陣の設計思想が非常によかったということを歴史が証明しているとも言えます。また、かなり高いところに設計目標を置いていたため、当初の開発に時間がかかったのも致しかたないとも言えるかもしれません。 写真はテレビアニメ、ルパン三世から。次元大介もエルプリメロを使っていました。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その9

結局、北京空港から飛行機が飛びませんでした。いやー夜の10時半にキャンセルと言われてもなぁ。日本だと地上職員さんが一所懸命にいろいろとやってくれるのでしょうが、さすがは中国。やっぱり大陸はスケールが違います。結局1時間半待って荷物を取って、さらに1時間待って新しいフライトを予約しました。もちろん代替の宿泊施設や毛布なんか用意してくれるわけがないので、ホテルも取り直しです。もちろん近くのホテルは満杯です。とまあいろいろやって、やっと一段落です。いかに自分が日本に慣れきって怠惰になっていたのかを痛感します。(^^) さて、クロノグラフに自動巻機構を設けるという世界初の試みを行った時計メーカー3社が出揃いました。ゼニスそしてホイヤー-ブライトリング、セイコーです。 では次に「世界初」の定義をしましょう。これって、以外と難しいんですよね。ギネスブックが一私企業のコレクターブックなのに、あれだけ好評を博している理由の一つがここにあると思えます。つまり、「世界一」の基準をきちんと定義して比較できるようにしてあるということです。 ちょっと以前、阪神タイガースの金本選手の連続イニング出場の記録がギネスに認定されるかされないかという話題がありました。曰く、それは公平な記録であるのかどうか、日本の野球のレベルはアメリカから見ると低いのではないか、年間160試合をアメリカ中飛びまわるメジャーリーグと、年間140試合を日本で行うプロ野球とでは連続イニング出場の強度が違うのでは?などと議論があった模様です。結局認められたのですが、野球というデータがすべて公開されて公式記録として残っているプロスポーツでこれですから、クローズドな体質を色濃く残す時計業界で、誰が一番最初にある機構を考え出したのか、これを決めるのは実は思ったよりそう簡単でもないかもしれません。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その7

さて、いよいよモジュールメーカーのデュボア・デブラの出番です。 この会社はいまではモジュールメーカーとして不動の地位を占めています。ブライトリングやジャガールクルト、パテックフィリップ、ロレックス、オーディマピゲ、リシャールミルなどありとあらゆる有名メーカーにモジュールを提供しています。得意とするのはカレンダーモジュールと、クロノグラフモジュールです。APのロイヤルオークオフショアのモジュールはこのデュボア・デブラの仕事です。 会社の創立は1901年まで遡れます。デュボア・デブラは当時からクロノグラフなどの複雑機構を得意としていました。現代のクロノグラフ(ストップウォッチ機構つきの時計)の原形は、1862年のロンドン博覧会で発表されたアンリ・フェレオル・ピゲ(Henri-Fereol Piguet)というのがおそらく正しいでしょう。ゼンマイの動力源(香箱)は一つで、ストップウォッチの動作中に時計の動作が止まることはありませんでした。そしてブライトリングによる腕時計型クロノグラフの開発は1915年とされていますから、1901年のデュボア・デブラの創設時はまさにクロノグラフの開発が発展途上だったころと重なっています。 そのデュボア・デブラは1960年代当時はホイヤーと密接な関係にありました。ホイヤーのキャリバー7700のストップウォッチはデュボア・デブラの仕事です。他にはモンテカルロストップウォッチ(7714)のモジュールもデュボア・デブラです。 こうしてデュボア・デブラは、ビューレンによる薄型の自動巻きをベースとしたクロノグラフ用のモジュールを一から開発するという、このプロジェクトで一番難しい個所を担当することになります。このグループの自動巻きクロノグラフの開発競争は、ほぼデュボア・デブラ次第ということになったわけです。

最初に自動巻クロノグラフを作ったのはどこか?その6

さてホイヤーーブライトリングというスポンサー連合が結成され、薄型の自動巻モジュールもビューレンからの新作で目処が立ちました。あとはクロノグラフモジュールです。 クロノグラフというのは、簡単に言うとストップウォッチです。いまだと100円ショップで売ってますので、どんなに難しかったのか、ちょっと感覚として分かりにくいですね。ただ、現在のような仕組みがない時代、たとえば昔のオリンピックでの計測は大変でした。人間が手でスタート、ストップを押していたので、人によってばらつきがでます。そこで10人程度で計測して、その平均を公式記録とするなどの方法がとられていました。 その他の社会的な要請としては、当時歴史的な発達を遂げた航空界などもありました。時速1000Kmで飛んでいると、1秒で280mも移動してしまいます。 50年代、クロノグラフは、このようなプロフェッショナル用途から一般の腕時計への展開がはじまっていました。1960年代にはブライトリングはアメリカで5万ドル(現在の価格で約400万円、物価が10倍として4000万円)を投じたキャンペーンを展開、007のサンダーポール作戦ではショーン・コネリーの腕にもブライトリング トップタイムがはめられました。 さて、この計時機能ですが、計時する時は、本体の時計部分から動力を分けてもらいます。これは動力元のゼンマイからいうと、動かすべき歯車が増えることになります。そのために精度が落ちては計測の精度が落ちてしまいますので、このクロノグラフモジュールの設計には、本体部分をきちんと理解した上で、限られたスペースに複雑なモジュールを設置する必要がありました。

最初に自動巻きクロノグラフを作ったのはどこか。その5

まずはベースとなる薄型自動巻のムーブメントを提供したビューレン(Burnen)から見ていきましょう。いまはもう名前のないメーカーですが、1873年創業の歴史あるメーカーであり、当時は高い技術力を持っていました。特に薄型の自動巻のムーブメントに定評があり、世界で最初のマイクロローター自動巻の特許を1954年に取得しています。 自動巻きという機構は、人間の腕の上下動を回転する動きに変え、それによってゼンマイを巻き上げる機構です。ところが人間の腕の上下動は実は思ったほど大きくなく、勢いよく回転させるために、大きく重い回転ローターが使われるのが常でした。しかしこの場合、回転ローターの分だけ、ムーブメントは厚く、重くなります。 ビューレンの開発した方法は、小さい(マイクロ)回転ローターによって、自動巻きを行うものでした。この場合、ムーブメントは薄く、軽くできますが、ゼンマイの巻き上げ効率をきちんと確保することが必要になります。このマイクロローター技術で一般的に有名なのはユニバーサル・ジュネーブですが、ユニバーサル・ジュネーブも、当時はビューレンとの特許紛争に敗れ、ビューレンにライセンス料を支払っていました。 これが、モジュール型のクロノグラフを開発しようしていたホイヤーブライトリングの目に止まります。ホイヤーは、1950年代後半からモジュール型の自動巻クロノグラフを構想していたといいます。そして1962年、ビューレンの新しいマイクロロータームーブメント、キャリバー1280がリリースされます。これは厚さわずか 3.2mmのムーブメントでした。

最初に自動巻きクロノグラフを作ったのはどこか。その4

さて、ブライトリングーホイヤー連合の簡単な紹介をしましたが、では肝心のムーブメントはどこが作るの?と思ったあなた、あなたはかなりの時計通ですね(^^) 当時から、スイスの時計産業は高度に分業化されていました。ダイヤルや針、ムーブメント、ケース、追加モジュール(カレンダーやクロノグラフ機能)、このそれぞれについて、それぞれを専門で作るメーカーがいます。時計の心臓にあたるムーブメントでいえば、ホイヤーのクロノグラフはバルジュー社のムーブメントを使っていましたし、ブライトリングではヴィーナス社のムーブメントが有名です。 この連合の最初からのアイディアは、マーケットへのリリースを最優先し、薄型の自動巻きムーブメントにクロノグラフのモジュールを載せるというものでした。そこで以下を採用しました。 薄型の自動巻きムーブメント…ビューレン(Buren)によるマイクロローター自動巻きムーブメント クロノグラフモジュール…デュボアデブラ(Dubois Depraz)によるモジュール ビューレンというメーカーは今はもうすでにありません。一方、デュボアデブラは、モジュール専業メーカーとして現在もその存在感を増しています。 次からこのそれぞれについて見ていければと思います。

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