腕時計の針飛びについて、もう少し考えてみます。これは実はけっこう面白い話題かもしれません。まず、一口に腕時計といいますが、おおよそ大別して次の三つの流れがあるように思えます。 貴族が使っていた、高級宝飾品としての系譜。 実用時計としての系譜。腕時計が初めて使われたのはイギリスのボーア戦争だと言われています。正確な時間を知るというのは軍隊では生死にかかわる重大時です。当時は一般の兵士にまでは時計はいき渡らず、時計を所持していたのは士官のみでした。 汎用品(コモディティ)としての系譜。クオーツ登場以降、腕時計のコストが革命的に下落してからの系譜。使い捨てをしたほうが精度もコストもリーズナブルであるということで生まれたディスポーザルウォッチの系譜。 やはり時代とともに、「時を知る」という営みはコモディティとしてありふれたものになってきています。現代では正確な時を知るためには、時計ではなく携帯という方も多いことでしょう。かく書いている筆者も、電車のホームで、クオーツ時計の時間に自分の左腕の時計の時間をあわせたりしています。 ところで身の回りのどんな時計でも、「時刻をあわせる」、さほど頻繁ではないにしても、これは必須の作業です。その必須な作業をするときに針がジャンプしてしまう、これはなかなかストレスフルですよね。実用時計や汎用品(コモディディ)でこのような動作を起していたら、毎日使うのはちょっと辛くなるかもしれません。しかしその一方で高級品としての時計、毎日使うことを想定されていない時計の場合は、まあ我慢できるかもしれません。つまりは時計でいう高級時計、宝飾時計は、必ずしも実用的な価値に優先順位をつけて開発されているというわけではない場合があるということでもあります。針飛びという現象だけではなく、防水性能を見てみても、そのことは分かるかもしれません。
日本でセイコーが1969年5月に発売を開始した自動巻クロノグラフ、スピードタイマー。ただ、世界的に発表が速かったのは、ブライトリングーホイヤーでした。セイコーが1969年3月、発売に向けて量産を進めている中、クロノマティック(キャリバー11)をジュネーブとニューヨークで発表、通説ではこれが世界最初の自動巻きクロノグラフであったとされています。 実はこの話に後日談があります。 1969年の3月、世界初の自動巻クロノグラフが発表されたその日、まさにその日が、世界で一番最初の自動巻クロノグラフが修理返品された日だった、というのです。ニューヨークで発表後、クジを引き当てた幸運なコレクターが、喜んで世界初の自動巻クロノグラフを持ち帰ったその日の夕方、クロノグラフの不具合で当時のアメリカでトップ代理店に修理を依頼、代理店の人も、初めて見る自動巻クロノグラフ、特に左リューズの構造にはかなりのショックを受けたといいます。 この話から、二つのことが分かります。 ブライトリングーホイヤーはキャリバー11をある程度の数を生産していた。少なくともニューヨーク、ジュネーブで同時発表した時に、クジを引き当てた幸運な人々にデリバリーできる程度には。 当時の新設計、キャリバー11のクオリティには、早急な改善が必要とされていた。 これを、まだ量産のクオリティに達していないものを発表したと捉えるのか、ある程度の品質に達していたからこそ、続く1969年4月のバーゼルフェアでもホイヤー、ブライトリング、ハミルトンから多種多様なモデルを発表できた、と考えるのか。いずれにせよ、莫大な投資をして、社運を賭けたプロジェクトを遂行している時に、こういう大々的なマーケティングイベントを開催できるというのは、当時の欧米メーカーがいかに強かったかということを表しているとも思えます。 画像は、当時のキャリバー11の設計図です。不具合は、クロノグラフ機構のオペレーティングレバー8140にあったそうです。
もう少し針飛びの話を続けましょう。前々回で少し書いたのですが、なぜ針飛びというのが起きるのでしょう?実は、ほとんどの手巻きのヴィンテージ時計には、針飛びという現象は見られません。針飛びという現象は、自動巻機構を内蔵した、比較的新しいムーブメントに多いのです。 機械式時計は、ゼンマイを動力として動きます。そして、歯車が規則正しく動いて時刻を表示します。ごく昔は時計を持っているのは一部の貴族のみで、庶民は教会の鐘の音で時刻を知っていました。それが、携帯できるよう腕時計という形になった当初でも、ゼンマイに手で巻いて動力を与え、時分秒が分かれば、それで御の字でした。しかし、時と共にいろんな機構が追加されるようになります。 秒表示: 6時位置のスモールセコンドではなくセンターセコンド ゼンマイの巻き上げ機構:手巻きではなく、自動巻 日付表示 曜日表示 クロノグラフ 第二時間帯表示(GMT) 日付のクイックチェンジ ムーンフェーズ … クォーツのデジタル時計でしたら、それに相当するプログラムを書くだけですので、これらの機構はすべて比較的簡単に実現ができます。一方機械式時計の場合、これらの機構は、それぞれ別の機械的な仕組み、歯車やバネ、レバー、コラムホイールなどの仕組みで実現する必要があります。これには物理的に面積が必要になります。その一方で、時計の大きさというのはある程度決まっていますので、設計のターゲットが、どのようなケースに入れるのか、どのような機能を実現するのか、量産機なのか高級機なのかによって変わってきます。 機械式時計の面白いところがまたこのあたりにあります。値段が高いから、故障も少なく頑丈というふうにいちがいには言えない、ということです。逆に値段が高い高級機の場合、量産される数も少なく、皆が皆使うというわけではなく、大事に使ってくれることを前提としており、普及期よりも華奢な場合があります。高級なドレスウォッチで30m防水というのはよくある仕様です。一方で2万円程度で入手できるセイコー5は基本的には100m防水です。どちらがいいということではなく、これはそれぞれの設計ターゲットがそもそも違うということなのです。
針飛びの話続きます。汎用機で使われるバルジュー7750ベースのムーブメントでも、高級機によく使わえれるフレデリック・ピゲ(FP)1185でも現象は違えど、分針をあわせるときに気をつかう、針飛びという現象が起きることがあります。 下世話な話ですが、バルジュー7750は、「汎用機」とはいっても定価でいうと最低でも20万円くらいではないでしょうか。高級機では50万円以上はします。フレデリック・ピゲ製のFP1185を採用している高級クロノグラフの場合、ほとんどの定価は100万円以上です。ちなみにFP1185を採用しているメーカーは、ブルガリ以外にも、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、ブレゲ、カルティエ、ブランパン、など、錚々たるものです。 バルジュー7750とフレデリック・ピゲ1185との大きな違いは以下になります。 1. バルジュー7750 … 設計のプライオリティは、信頼性、メンテナンス性の高いクロノグラフ。薄さおよび操作感は対象外です。 2. フレデリック・ピゲ1185 … 設計のプライオリティは、信頼性もさることながら、薄さ及び操作感、つまり高級機です。 優秀な設計者が、初期の設計目標を達成するのはよくあることです。しかし、それがその初期の設計目標を達成し、そのマーケットでその地位を確立しつづけるためには、その初期設計が優秀であると同時に、その設計をたえまなく改善させるモチベーションが必要です。 スイス時計産業にはその仕組みがあります。優秀な設計のムーブメントは、いろんなメーカーの時計で使われ、そのフィードバックによって継続的に改善されていきます。バルジュー7750でいえば、(筆者が所持したことがある時計のなかでは)ブライトリング、ロレックス、IWCによるチューンは群を抜いて良好です。フレデリック・ピゲ1185はもともと高級機向けですから、どこのメーカーによる時計でも高級機ですが、各メーカーからのフィードバックによって、その地位を確立し続けています。 裏を返せば、このことは、10年、20年というスパンで、信頼性のある機械式時計のムーブメントを設計することがどんなに難しいかということを物語っているともいえるのではないでしょうか。
随分と久し振りですが、今回は、分針の針飛びの話、その続きをしましょう。機械式時計は、普通のクォーツ時計と違って、使用上の注意があります。かなり高価なのに、その上いろいろと気を使わないといけない、それが機械式時計なのです。 今回取り上げるのは、ブルガリの名機、ディアゴノ303です。ジュエラー、ブルガリは最近は時計にも力を入れていますが、このディアゴノ303はクロノグラフのフラッグシップモデルです。そしてベースのムーブメントはこれも名機のフレデリック・ピゲ(FP)の1185です。FP1185は、薄型クロノグラフを目指して設計してあり、高級クロノグラフに大変よく使われています。この薄型化のために、セイコーが開発した垂直クラッチ機構を、現代的に再設計したムーブメントとしても有名です。ブルガリは、このムーブメントをもとにチューンを施しキャリバー BVL303としてディアゴノ303に搭載しています。スペックは、21600振動(3Hz)、37石、直径 26.2mm、高さ5.5mmと、わずか5.5mmに3レジスタのクロノグラフ、デイト機構を組み込んであります。 さて、この高級ムーブメントにも分針あわせのときに針飛びが起きます。11時5分にあわせようと思ってリューズを引きます。そして押しこむと、見事に分針が1分ほど動いてしまいました! これはブルガリだけでなく、FP1185をベースに採用している高級クロノグラフについての、ムーブメントの癖とでもいうべきものです。ちなみに実は、筆者はこのFP1185ベースのクロノグラフの分針調整が得意です。コツは、戻しあわせで、そっと押しこむことです。 ムーブメントの癖を見抜いて、使いこなすというのも機械式時計の楽しみの一つと言えるかもしれませんね。
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